管理者プロフィール

はじめまして!

はじめまして!

わたくし”naoさん”と申します。
Webマーケティングを学び始めたアラフィフです。

詳しくは基本情報と、その後に続く生い立ちから現在までの
プロフィールをお読みいただければ幸いです。

基本情報


naoさん

WEBマーケテターを目指す
アラフィフ主婦。
新卒から25年以上同じ企業で勤務。
社内で数少ないワーママ管理職として働くも
親の遠距離介護をきっかけに退職を決意。
大学生、高校生息子ふたり。
趣味は、花や観葉植物を育てること、野球・バスケ観戦

幼少期~小学生:転校生生活の始まり|暗黒期と恩師との出会い

私は、転勤族のサラリーマン家庭に生まれました。

ともに九州出身の両親ですが、父の仕事の関係で
2~3年ごとに転勤する生活でした。
父の帰りは遅く幼少期にほとんど話をした覚えがなく、
しつけに厳しく手芸好きな専業主婦の母と長い時間を
過ごしていました。

生まれてから幼稚園を終えるまでに都内、北海道、福島、愛媛と
引っ越しをし、環境の変化に心がついて行かなかったのか
精神的にとても不安定でした。

幼稚園に行こうとするも怖い夢をみて泣きじゃくり休みがち。
就学後も小学校2年くらいまで保健室通い。

今思えば、親にとってとても育てにくい子だったと思います。

しかし時代なのか、ほぼ毎日教室と保健室との往復でも
さほど問題視されず、親や先生が私を責める訳でもなく
見守ってくれたおかげで、
次第に心を開き始めるのでした。

小学3年になると交友関係が広がり、外遊びが大好きで
暗くなるまで空地で友達と遊びほうけている
たくましい子へと成長しました。

ようやく慣れてきた小学3年の終わりにまた転校。
愛媛から群馬へ。

転校生としての初登校の日。
クラスメイトの男子女子10名程を社宅に招き、
ドッジボールをすると言って母を驚かせます。

幼な心にも、転校生の私に興味を持ってくれていることが
うれしくてたまりませんでした。

「今までとちょっと違う。人は変われる⁉」

後から思えば無意識のまま、そのように感じたのが
初めてみんなの中心となったこの日でした。

小学校高学年になると、とにかく勉強よりも活発に体を動かす毎日。

授業の後、校庭でランドセルを放り投げ、カラーボールで
ワンバン野球をやったり、町別対抗のポートボールに没頭したり。
ザリガニ採りは何と小学5年まで、餌をつけて釣るのではなく
近所の浅瀬に網を持って入り、網の柄(え)で岩の間をつつく方法で
採っていました。

また、市の陸上大会で遠投の選手に選ばれたりと、年中真っ黒。
活発なおてんば女子に成長しました。

ただ、性格はというと感受性が強く生真面目なところがあり、
クラスで先生がみんなに向けて叱った場合にも率先して受け止めてしまい、
都度責任を感じては、くよくよしてしまうことに疲れてもいました。

中学生~高校生:中学でまたもや人生リセット!

心の友もでき、現在も交流がある恩師と呼べる先生との出会いも果たし
小学校を涙涙で卒業した直後。
小学校の隣の中学校に進学すると
思い込んでいた私に、
またもや転校の時が来ました。
今度は群馬から静岡です。

当時は近くの中学から怖い先輩が小学校に声をかけに訪れ、
中学では陸上部で砲丸投げをやることが
決まっていたので(泣)、それを回避できると思うとかなりホッとしました。

ただ、今回も築き上げた大きなものを失う喪失感や、友人と遠く離れることになる
悲しさとで心の中は当然、混乱していました。

そうこう憂いでいるうちに引っ越し。
新しい景色、新しい匂い。
引っ越し先の方言の違いに今回も困惑しましたが
これまで蓄積したコミュニケーションスキル。

引っ越し荷物の荷ほどきを終えた頃には
もはや「なるようになる!」とワクワクしていたのでした。

中学の部活は、テニスかバスケに入りたかったものの
練習が厳しいという理由で母から反対され、
近所の同級生と同じ吹奏楽部に入りフルートを選びます。

あまり期待せずに入った吹奏楽部でしたが、
意外にもはまり、その後高校まで続けました。

中学ではフルート、女子高進学後はフルート希望者の
競争率が高かったため、自ら打楽器に転向しました。

中学校生活。
勉強はさておき、おそらく笑い上戸などの理由で学級委員や
生徒会などに選ばれやすく、充実しているもののストレスフルな毎日でした。

それが女子高に進学するとどのような役割にも立候補者がいて
すぐに決まってしまうので全く目立つこともなく、
何てお気楽なんだろう、と部活に熱中することができました。

また、高校生になると、父が岡山や佐賀に単身赴任
してくれたので、中高の6年間は同じ土地で生活することが
できたのでした。これは本当にありがたかったです。

どこで何をすることになっても小さな楽しみを見つけること。
そうすれば、自分次第で毎日が面白くなっていくことを経験しました。

大学生~新社会人:進学で晴れて上京。寮生活や一人暮らしを経験

転勤族家庭に育った私は、浜松で自宅から通える大学を
選んでも、親が引っ越してしまう可能性があったので
地元の大学ではなく、東京や京都の大学を受験することに
なりました。

英語と保育の勉強をどちらにするかを迷っていた時。
当時の担任の先生から

「英語はいつでもやろうと思ったら自分でできる。
ただ、保育のほうは通って実習をして資格を取る必要が
あるから環境を整えるのが難しい。保育のほうがよいのでは」

と勧められました。

結局、児童教育系の学科を受験して幼稚園教諭や保育士のための
実習ができる東京の大学に進学しました。
親から離れての寮生活や一人暮らしの始まりです。

体力勝負の保育園実習では、延長保育で19時半までの預かり保育を経験。
当時の私は、乳幼児と一緒に過ごしながら

「朝からこんなに遅くまでの長時間、子どもを保育園に預けるなんて
私にはとてもできない…」

と当然のように思っていました。

まさか将来、自分ががっつりと誰よりも保育園にお世話になるとも知らずに。

20代:束縛から解放され行動範囲は海外へ。そして結婚。

大学卒業後、私は本の物流会社(出版取次)に就職しました。

出版社とはまた違って、書籍、雑誌、CD、DVDなど
世の中のありとあらゆる商品を扱う会社であることに誇りをもって働いていました。

しかし、学生時代からおつき合いしていた方からかなり束縛
された生活を送っていました。
会えない日も毎日長電話。少しの残業も社畜だと馬鹿にされ、
そのような束縛に耐えられず、離れることを決めました。
携帯電話もなかった時代です。

その後、行動範囲が広がり、仕事の他にも会社の先輩と
スキルアップのための各種セミナーに誘っていただいたり
女友達との海外旅行を楽しみました。

特に、

カナディアンロッキーを馬で越える

という旅は、人生観をも変える、親からも誰からも解放された旅となりました。

このロッキー越えについては、大学時代の恩師が更に数十年前の若い頃に
すでに決行していて、その様子をゼミの際に8ミリビデオで
見せてくださったことがきっかけです。

その恩師からは、

“長い人生の中で一度は、貯金がゼロになるくらいの思い切った行動をしなさい”

と勧められ、その当時の貯金のすべて(60万くらい)を
約10日間の旅行につぎ込みました。

すでに社会人だった私は、当時25歳。
年齢も様々な女性達と共に計画をたて、事前に長野の牧場で
外乗(馬場ではなく山の中などを散策する)の練習を開始し、
3回程通いました。
その年の9月の旅行について、4月には上司に伝えて万全を期し、
無事長期休暇を取ることができました。

ロッキー越えは、現地のカウガール、カウボーイの引率が
あるので安心なのですが、山の天気が変わりやすく、
晴れていたかと思えば近づいてくる雷鳴に時々馬が反応する中、
ひたすらに次の山小屋に向かって騎行しました。

一行が馬で行くすぐ横の木にカミナリが落ち、
煙が出ているのを見ながら気持ちを強く持って歩みを進めました。
カミナリなどの大きな音に馬は反応するので必死にしがみつき、
自分を乗せてくれている頼れる馬をとにかく信用するのみでした。

大きな声を出すと馬は驚いて跳ねるので
キャーと声を出すこともなく、ただただひたすらに。

このロッキー越えでは、いざという時に最低限必要なのは
水と食料とタオルだと、究極のミニマム体験をしました。

1990年代はまだ日常の中にデジタルが入り込んでおらず
初代iMacが発売され、PCでのメールは普及し始めたばかり。
現地ガイドの名刺をいただきましたがよくわからず、
メールを送ることができなかったことがとても残念でした。

 

この他にも、北京や台湾のブックフェアに観光付きで出張したり、
友人とヨーロッパなどに行き、それぞれの地で
楽しいことだけではなくスリにあうなどの苦い経験もしました。

…とまぁ、毎日が充実しすぎていて一人が楽しく、
彼氏が欲しいなどということに全く気を取られなくなった20代半ば。
目の前にすっと今の主人が現れました。

年下で社内の同期。高校を出てすぐ社会に出ていた彼が
学歴など私と釣り合うとか釣り合わないとかを全く考えずに
正面からぶつかってきたのでした。

2年ほどつき合った彼の考えは、以下の通りでした。

私には 「やりたいことを好きなようにやっていてほしい」

結婚観としては 「ずっと仕事を続けたいと考えている人がいい」

29歳の時です。
私は、一人でやっていた家事が半分になるし、仕事も続けられる。
結婚も悪くないかも、と思い始めた頃。

たまたま二人でふらりと行ったホテルリニューアルのお得なディナーで
その会場が気に入り、その場で式場を決めて3ヶ月後の日程を予約。

慌ただしく、両家の親に結婚の挨拶に行くことになりました。

30代:はじめての子育てと仕事の両立に悪戦苦闘の日々

はじめての妊娠では、つわりがひどく
社員食堂にも近寄れないような体調の悪さが続きました。

社内でまだほとんど取得者がいなかった産休を何とか取得。

ついに来た長男出産の際には尾骨を骨折し、
産院を退院するとそのまま整形外科に直行しました。

確かに骨折しており、その原因がこの10年近く前に
スノーボードで尻もちをついた際に骨が内側に曲がって固まっていたこと、
その骨を渾身の力でへし折って出てきてくれたことがわかり、
長男の生命力に驚きと感謝で涙しました。

それから1年後。
1歳の誕生日が仕事復帰日だったのですが、
佐賀から実母、県内から義母のいずれかに時々来てもらい、
二人にお願いできる範囲でたくさんの手を借りて
仕事復帰しました。

母達を頼れない時、長男は朝7時の開園から夜19時の閉園までがっつりと
保育園で過ごしていました。

発熱などで、仕事復帰後半年程は半分くらいしか出社できず、落ち込む日も
多かったですが、少しずつ免疫力がついたのか次第に病院に行く頻度が
減ってきました。

また、その数年後、流産の危機を乗り越えて次男を出産。
次男は生まれ月の関係で生後10ヶ月から保育園でお世話になりました。

何かと息子達の体調について不安になったりしながらも、
笑いあり、感動の涙ありで成長を喜んでいました。
そんな我が家にピンチが訪れます。

長男が4歳、次男が1歳半の時、夫が広島に転勤となり、
これからどうしようと途方に暮れました。

結局私はそれまでの仕事を続けるため、
毎日4時起きで家事を開始し、子どもたちを7時に保育園に送り出社。
次男のイヤイヤ期と重なり、
体力的にもメンタル的にもこたえてしまいました。

また、持ち帰ってはいけない仕事を持ち帰り、息子達が寝静まった後に
原稿の校正などを進めていました。

「この生活は大変だけど、日本で一番大変な訳ではない。
世界中見渡せば、私よりもっともっと大変な人はたくさんいるはず」

今思えば笑ってしまうほど大げさな言葉で自分を奮い立たせていました。
そのくらいの気持ちでいないと、潰れてしまいそうだったのです。

その後、2年ほどで夫は異動で帰ってきました。
私のことを応援してくださっていた上司の計らいもあったようで
辞めずに続けて良かったと思いました。

当時、自分がリモートで仕事をするなど全く想像できない時代でした。

40代:充実した仕事と息子達のスポーツに目が回りそうな8年間

仕事では目が回るような忙しさの中。
ついに、というかようやく昇格の時が巡ってきました。

大卒女性は選択肢無く男性と同じ総合職だったはずですが
子どもを持つ社員が昇格することは、当時まずありえませんでした。

ただ、私は管理職になって自分の裁量である程度働けることにも
憧れを持つようになっており、昇格の際には、夫をはじめ息子達も
喜んでくれました。

ちょうど仕事も面白くなってきた頃、息子達は習いごと全盛期。
休日は、スイミングや体操教室、
小学校に入るとふたりとも野球を始め、土日祝日は完全に
野球漬けの生活でした。

全くのペーパードライバーだった私が車を運転するようになり、
当番の球場アナウンスなども教わりながら間違えながら
何とか経験しました。

そんなある日の勤務中、我慢できないほどの頭痛で
早退させてもらい病院に行くと、元々血圧が低かったにもかかわらず
血圧が170あり、倒れなかったのが不思議と言われ
仕事中も1時間おきにぼーっと遠くを見るよう、言い渡されました。

ただ、仕事中にぼーっと遠くを見る時間は無く、
とにかく無理しすぎないということに徹するのみでした。

仕事と息子達の野球の両立は約8年間続きました。

仕事と家庭の両立の難しさや、満員電車での通勤の
きつさなど。体力的にもきついなー。

と思いつつも、ここまで苦労も努力もしてきたのだし、
2回も育休を取らせてもらったし。

後輩のためにも働く母の先駆けとして何とか会社に残って
定年まで働くために、その場その場を凌いでいました。

現在:25年以上勤めた会社を退職 | WEBマーケティングとの出会い

これまで冒険よりも安定を好み、仕事の内容からも定年まで
同じ会社で勤め上げるものだと考えていました。

また、社内の先輩方は、結婚や子どものことよりもキャリアを積むために
邁進された猛者揃いでした。

その中でも、「がんばれがんばれ」といつも励ましてくださった先輩方の顔、
「私の前を行ってくださるのでありがたい」と言ってくれた社内の後輩ママ達の顔。

無我夢中で頑張ってきました。

しかし、2021年4月。新型コロナの感染症対策で在宅勤務の制度が
整うまで自宅待機を経験し、これまでの働き方について
立ち止まって考えさせられたのでした。

しばらくして在宅勤務の環境も整い、
全社的に週2,3日ずつ交代で在宅勤務を
しなければならないことになりました。

この時、実母の病状がとても悪く、危篤の連絡が入ったため
私は佐賀と千葉の自宅の往復することになりました。
1か月以上もほとんど病院から出ることができず、
母の傍らでリモートワークをすることができたのは本当にありがたかったです。

「このような働き方ができるなんて」

実父のほうも、いくつもの病気を抱えているため行き来が必要な状況です。
職場で「申し訳ない」と言い続けてまた迷惑をかけることになることも
頭にちらつきました。

また、朝の通勤電車は力づくで立っていなければならず
定年までこの中にまぎれて通勤できるのだろうか…という不安もありました。

ただ、これから高校や大学への進学を控えた息子達のことを
考えると、世帯収入が半分になるのは恐ろしい面もありましたが
思い切って会社を辞める選択をしました。

「一生の仕事を身に付けるにはラストチャンスかも!」

ということで、実はWebマーケティングの基礎を本格的に学ぶ前に、
ものづくりの先生の門戸を叩きました。
年齢は関係無し、素人OK、店舗を持たなくて大丈夫。
という説明を受け、ジュエリーデザインの勉強を始めます。

ただ、販売の仕事も素人で、店舗を持たずに商品を販売するには
結局のところマーケティングでつまづき悶々としていました。

デザイン画を描くのはとても楽しく、世界で一つのものを作ってほしいと
お声がけいただくことが出てきました。
すでに本業として仕事をしている方を見ていると、私も仕事を辞めれば
個人事業主として仕事ができるのか、と退職を決意するきっかけとなったのでした。

ハローワークでは、職業訓練校に通うことに魅力を感じ、
WEB制作、WEBデザインなどの講座について調べ、
申し込みをしようとしていた時。

人工透析を開始した実父の体調が思わしくなく、
また佐賀に行かなくてはならなくなりました。
職業訓練校への毎日の通学は難しいと気を落としていたその時。

開始当初から入会していた、とある女性経営者のオンラインサロンから
LINEが届きました。
なんとサロン内でWEBマーケティングの指南をしてくださっている
みんなの憧れの先生から直々に教わることができるとのお知らせです。

学校に通うことなく、日本一の実績を持つ先生から
Webマーケティングを学ぶことができるなんて。

年齢もおそらく最年長。
若者に比べたら覚えも悪いから人一倍努力しなければ…
それでも1年間スクールでチャレンジすることに決めたのでした。

 

ここまで長文をお読みいただき、ありがとうございます。

私のこれから描く未来。それは

「ゼロからWEBマーケティングを学び、在宅で1年目に月30万を稼げるようになる」

ことです。

これまではExcel、Word、PowerPointを使えていればよかった
私が、ブログやSNSにも挑戦し、アウトプットしていきます。

これから一緒に、理想の未来を追求していきましょう!